天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ) 元和七年 (1621年)〜寛永十五年 (1638年)

天草四郎時貞

島原の乱の精神的支柱となった16歳の少年。圧政に立ち上がり、原城に立てこもり、90日間の戦いの末に戦死した。妖術を使ったという伝説がある。本名は益田四郎時貞。

苛酷な税と飢饉に苦しむ農民のただ一つの希望

島原地方はキリシタン大名の有馬家の領地でしたが、慶長十九年(1614年)、領主の有馬直純が、日向という別の領地に移動するように幕府から命じられました。その時、家臣の中にはよその土地に移ることを拒んで、そのまま農民になった者も多くいました。有馬家に代わって島原城主となった松倉重政は、有馬に仕えていた人たちの収入を全て奪い取ったので、元の家臣らは農民となって、生活の糧を求めるよりほかなかったのです。新しい領主である松倉重政は、本来は武器の操作に熟練している武士である彼らの存在におびえていました。そのために農民には重税を課し、多額の米を差し出すように命令し、それができない者にはむごい刑罰を与えました。松倉重政は、農民への迫害と同時にキリシタンにも凄惨をきわめた迫害を行いました。それは、松倉重政の跡継ぎである松倉勝家の時代にまで続きました。

島原半島も、その南によこたわる天草の島々も、もともと山地が多く、耕地が少ない土地でした。ことに寛永十一年(1634年)以来、凶作が続き、飢饉と重税が農民たちを貧窮のどん底におとしいれました。農民たちは木の根や草を食べて飢えをしのぎ、苦しんでいました。その農民たちのただ一つの希望が、その昔、天草に来たママコスという宣教師が残した「いまから26年目に必ず不思議な力を持った素晴らしい人が現れるだろう」という予言でした。

奇蹟を起こすカリスマ少年が出現

そして26年後、島原地方に不思議な少年の噂が流れます。その少年は、文字も習わないのに書物を読み、不思議な術を見せました。少年が手をさしのべると空から鳩が舞い降り、掌に卵を産みました。その卵を割ると中からキリシタンの経文が出てきた、と伝えられています。

他にもスズメがとまっている竹の枝を折っても、スズメはじっとしたままだったとか、天草と有馬とのなかほどにある湯島という島まで海の上を歩いて渡ったとか、その少年が起こす奇跡を見た、あるいは伝え聞いた人が多数いたと記録されています。それがどこまで真実だったかは知る由もありませんが、貧窮のどん底であえぐ農民が、この少年が起こす奇蹟によって救われることを心の底から願ったであろうことは想像できます。この少年が本名・益田四郎時貞、後にわずか16歳で島原の乱の総大将となった天草四郎時貞です。

苦しみに耐えかねて農民一揆で2万数千人が立ち上がる

寛永十四年(1637年)の秋、苦しみに耐えかねた2万数千人の老若男女が、天草四郎時貞を中心に立ち上がり、足かけ5ヶ月にわたって幕府に抵抗して、天下を震え上がらせました。

一揆のきっかけにはさまざまな説があり、どれが正しいかは分かりませんが、すべてキリシタンの反逆であるとしたのは、松倉家が行ってきた農民に対する過酷な政策をごまかすために、事実をゆがめて広めたからだと伝えられています。しかも幕府はこの一揆を、キリシタンに対する警戒心を高めるために利用しようと考えたので、すべてを信仰の問題にして、苛酷な重税からは目をそらせるようにしたのです。

数回にわたる幕府軍の攻撃に、原城に立てこもった天草四郎をはじめとする一揆軍は善戦しますが、最後は幕府軍の夜襲に遭い、壊滅します。天草四郎も戦死します。しかし、一揆軍2万数千人に対して、幕府軍が討伐のために動員した兵力は12万4千人、その費用はおよそ40万両に達しました。

後の世、天草に豊かな村ができた

では、なぜ、わずか16歳の天草四郎時貞が総大将に選ばれたのでしょうか。四郎は学問にすぐれた若者だったからには違いありません。しかし、他にもたぐいまれなる美しい姿や、神秘的な力を持つという噂、救世主という予言。それらが重なり、天草四郎時貞の名が疲弊した農民たちの間で、口から口へと伝わっていくのを見て、島原の乱の指導者たちもまた、四郎が宣教師の予言通りの神の使いであることを信じ、キリシタン農民の勇気と希望のシンボルとして総大将の役割を依頼しました。さまざまな迫害にも負けずキリシタンの信仰を守り通して来た農民たちは、四郎の姿を見ると、十字を切り、ひざまづいて拝んだそうです。その美しさと若さ、そしてりりしさと頼もしさにうれし涙を浮かべる者までいました。苦しみにあえぐキリシタン農民を救う神の使いと信じられていたと伝えられています。

益田四郎時貞は、指導者の一人に呼ばれて突然、総大将になることを懇願されました。
「あなたこそが、苦しんでいる農民たちを救う神の使い。総大将となるべき運命にある人です」。四郎は一度は辞退しますが、考えぬいた末についに、総大将になる決心を固めます。後に島原の乱と呼ばれる大変な悲劇はすでに始まっています。強大な幕府軍に勝てる見込みはなかったと思えます。もしかすると天草四郎時貞は、キリシタン農民たちの希望に応えてその支えとなるために、自らの命を犠牲にして、神の使いという役割を果たしたのかもしれません。いまとなっては、四郎の胸中を知るすべはありません。

島原の乱は、人間を尊重しなければ国は成り立たないという警告を社会に与えました。乱の責任者である松倉勝家は六万石の所領を没収され、後に身を寄せていた美作国で、「国民を苦しめた罪軽からず」と異例の死罪となりました。その後、島原と天草は新しく検地しなおされました。乱で人口が減少したため、九州、四国、中国などから農民を誘致しました。そして島原の乱の教訓を活かして、新しい豊かな村ができたと伝えられています。破れたとはいえ、最後まで勇気を失わずに戦った農民の思いがいかされたのです。そして、その勇気の支えとなったのが16歳の四郎でした。

沢庵宗彭

宮崎安貞