伊能忠敬(いのうただたか) 延享二年 (1745年)〜文政元年 (1818年)

伊能忠敬

江戸後期の地理学者・測量家。人生の前半は商人として家業に専念し、商才を発揮しました。隠居後に日本全国の測量に着手して、日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」を作成しました。

情報活用によりビジネスで成功

伊能忠敬は延享二年(1745年)、上総(かずさ)国小関村(現在の千葉県)、九十九里浜の近くで、名主である神保家の三男として生まれました。7歳の時に母が他界し、その後は親戚の家を渡り歩きながら成長します。決して恵まれた少年時代ではありませんでしたが、寺の住職に算術を学ぶなど、学問に対する興味がめばえていたようです。

17歳の時に佐原村の伊能家の養子になりました。伊能家は、広い田畑を所有し、酒や醤油の醸造業を営み、利根川の水運の利権も持つ豊かな家でした。忠敬は生産した酒・醤油・米・薪などを、船で効率よく江戸に運んでタイムリーに販売するなど、常に一歩先を見すえてビジネスを展開しました。江戸に集まる各地の最新情報を収集し、その情報を活用して、豊作地からいち早く米を安く買い集めて、江戸に開業していた問屋でさばくなど、機敏な商才を発揮して家業を盛り立てていきました。

この頃、佐原村は利根川水運の拠点として繁栄していました。また、近くの九十九里浜は日本一の干鰯(ほしか、干したいわしで肥料にします)の産地としても栄えており、俳人や画家などの江戸の文化人もよく訪れていました。「佐原本町、江戸まさり」とうたわれるほどであったと伝えられています。こうした環境のなかで、忠敬は次第に学問への興味を深めていったようです。

困っている人々を救済せよという伊能家の家訓

忠敬は家業のほかにもう一つ、大切なものを受け継ぎました。それは、困っている人々を救済せよという、伊能家の家訓です。伊能家は代々、田んぼを開発して、できた田んぼを貧しい人々に与えたり、年貢を払えない人の分を払ってあげたりする家でした。貧しい村人の救済は、伊能家の伝統だったのです。

天明元年(1784年)8月、忠敬は36才の時に、村人の生活の向上に尽くそうと名主となります。しかし、数々の災害が佐原村を見舞います。この年に、利根川が氾濫して洪水となりました。名主忠敬は、危機管理能力を発揮し、堤防修復工事や難民の救済に全力を傾けました。

その後も、利根川は何度も氾濫しました。その度に忠敬は奔走し、やがて測量の重要性を認識して、独学で知識を身につけていったようです。また、利根川の治水工事の際にも商才を発揮し、経費を浮かして、永久相続金と名づけた非常用積立金制度を作りました。

天明の大飢饉では家訓を守り、私財をはたいて救済活動を展開

天明二年から七年にかけては、全国各地で大飢饉がおこりました。大勢の餓死者が出て、全国各地で一揆や打ちこわしなどが発生しました。

天明三年(1783年)7月には、浅間山の大噴火があり、関東一帯に灰が降り、農作物は大きな被害を受けました。天明六年(1786年)7月、佐原村は、利根川の大洪水でさらに打撃を受けました。浅間山の大噴火以来続いていた不作に、追い打ちをかけられました。佐原村は飢饉に見舞われました。

しかし、佐原村には忠敬がいました。忠敬は村民救済のために、数々の手を打ちます。領主と交渉して、年貢米の免除や救援費用の支給を認めさせました。また、各地を巡視し、食べる米も着るものもなくて困っている村人を目にして、いまこそ家訓を実践するときであると、自分の米蔵をはたいて人々を救済しました。ビジネスで得た貯えを人々の救済のために使ったのです。

関東一円が飢饉となっていたので、関西から米を買って、近隣に安く分け与えたり、無料配布したとも伝えられています。また、村人だけではなく、よその土地から来た難民にも金を貸し与えるなど、温かい援助の手をさしのべたといわれています。

忠敬の働きによって、佐原村民からは、一人も餓死者が出ませんでした。忠敬の商才と危機管理能力で、非常事態を乗り切ったのです。

50才からの再出発で「大日本沿海輿地 (よち) 全図」を作成

忠敬は家業が順調であることを見きわめ、寛政六年(1794年)に50歳で引退しました。念願であった学問を志し、翌年江戸に出て、19歳年下の高橋至時(たかはしよしとき)に入門しました。ここで、西洋暦学と測量術を学びました。自宅には、望遠鏡や象限儀(しょうげんぎ)など、機器を揃えて観測所も作りました。

この頃、日本の沿岸に異国船が出没します。幕府は国防のために地図の必要性を感じて、まず北方の蝦夷地(えぞち)の測量を計画していました。それを知った忠敬は、至時を通して蝦夷地の測量役を申し出て、許されることになりました。第一次の測量では費用の大部分を自己負担しています。その後、忠敬は全国測量の旅を続け、日本列島4.4万キロを17年かけて歩き、地図の完成に全力を傾けます。しかし、作成途中で74歳の生涯を閉じます。その後「大日本沿海輿地全図」は、高橋至時の子、景保の指揮で完成しました。

「大日本沿海輿地全図」の作成は、近世の科学史上の大きな功績です。そしてここではさらに、天明の大飢饉に際して、公益に尽くすという家訓を守り、一揆や打ちこわしが発生しそうなときにも、その誠実な態度で、人々の心に希望を与え、危機を乗り切ったということで、田んぼのヒーローともさせていただきたいと思います。

お千さん

小林一茶