沢庵宗彭(たくあんそうほう) 天正元年 (1573年)〜正保二年 (1645年)

沢庵宗彭

江戸初期の臨済宗の僧。大名たちの招きを断り、大徳寺や南宗寺で修行を積んだ。後に品川に東海寺を開いた。書画・俳諧・茶に通じ、その書は茶道で珍重された。沢庵漬けを発明したとも伝えられている。

紫衣事件で幕府に抗議して流罪、土岐頼行のもとへ

沢庵宗彭は天正元年 (1573年) 、但馬国 (現在の兵庫県) に生まれました。10歳で出家し、寺を転々として修行を重ねた後、大徳寺派の董甫宗仲 (とうほそうちゅう) らの教えを受けました。慶長十四年 (1609年) 、37歳の若さで京都・大徳寺の第百五三世の住職に就任しましたが「私は本来、さすらいの身です」と言ってわずか3日間で辞任しました。また豊臣秀頼、細川忠興、浅野幸長、黒田長政など多くの大名から、自国の寺の住職への就任などの招きをうけましたがすべて拒否して、時の権力者におもねることなく、自然を友として修行生活を送っていました。その清貧ぶりは、一枚しかない衣を洗い、乾くまで裸で待っていたと伝えられるほどです。

寛永四年 (1627年) に紫衣 (しえ) 事件が起こります。紫衣とは、紫色の法衣 (ほうえ) や袈裟 (けさ) のことで、これを着用できるのは高僧に限られていました。そして、これを着用する僧の選定は朝廷が行っていました。征夷大将軍となった徳川家康は、表向きは朝廷を敬いつつも、その勢力をできる限り抑えようとしており、この僧の選定の権利を朝廷から幕府へ移そうとしました。幕府の許可無く紫衣を着用してはならない、としたのです。そして寛永四年 (1627年) 、徳川家光の時、それまでの朝廷の許可を無効とし、紫衣を着ていた僧から、紫衣を取り上げようとしました。これに対して、沢庵宗彭は真っ向から異を唱え、痛烈な批判を含む抗議書を起草して幕府に提出、幕府の怒りに触れ、寛永六年 (1629年)、出羽国 (現在の山形県) に流罪となります。

土岐頼行へのお礼に沢庵漬けを発明したという説

幕府の囚人となった沢庵を、出羽国で丁重に迎え、厚遇したのが藩主・土岐頼行 (ときよりゆき) です。当時22歳だった若き頼行は、尊敬している沢庵のために小さいながらも立派な住居を贈りました。沢庵は春雨にけむる閑静なこの住居をこよなく愛し、「春雨庵」と名づけました。また頼行は歌人としての沢庵を慰めるために、歌に詠まれた名所を訪れる旅に連れ出したりしました。

また頼行は武芸にも熱心であり、たびたび「春雨庵」を訪ね、沢庵から兵法の心得を学び、自己流の槍術の開祖ともなりました。また、沢庵の教えに従い、人々の平和な生活を願って、用水路の整備なども行ったようです。

沢庵漬けは、干した大根を糠 (ぬか) や塩を使って漬けこんだもので、大根を長期間貯えておける、保存食でもあります。農民が寺に収穫の大根を供えますが、大根が出来る時期は同じなので、食べきれないほど一斉に集まるため、寺では保存する工夫をしていたはずです。その一つが貯 (たくわ) え漬けだったと思われます。

沢庵は寛永九年 (1632年) 、前将軍徳川秀忠の死による特赦で許され、京都に帰りました。このとき、土岐頼行に対する感謝のしるしとして貯え漬けを贈り、それから沢庵漬けと呼ばれるようになったという説があります。

貯え漬けを沢庵漬けと徳川家光が名づけたという説

この貯え漬けを、徳川家光が沢庵漬けと名づけたという説もあります。第三代将軍徳川家光は武道指南役の柳生宗矩 (やぎゅうむねのり)の勧めにより、沢庵を江戸に相談役として招きました。沢庵和尚もこのときは、しぶしぶと招きに応じています。武道の知識が深く、人柄も優れていた沢庵に徳川家光はとても感動し、75回も東海寺を訪れて沢庵の教えを受けたそうです。

あるとき、家光が「最近何を食べてもおいしくない。何かおいしい物が食べたい」と言うので、沢庵和尚は彼を東海寺に招待します。ただし、途中で帰らないでください、と約束させます。家光は午前10時頃やって来て、沢庵和尚が何を食べさせてくれるのか期待しながら待っていました。しかし、昼が過ぎても、なかなか食事が出てきません。お腹がすいて、喉も乾いてきました。しかし約束があるので、家光は途中で帰ることができません。ようやく午後2時頃、お茶漬けに漬け物が添えて出されました。それを家光は一気に食べ、「こんなにおいしい物は初めて食べた。これは何だ」と聞くと、沢庵和尚は「それは、禅寺に伝わる貯え漬けです」と答えました。すると家光は「これは貯え漬けにあらず、以後これを沢庵漬けというべし」と名づけました。これはまた、家光の日頃の美食を戒めるための沢庵和尚の教えでもありました。これが沢庵漬けが世に広がった始まりという説です。

天下一品のおかず・沢庵漬けで食生活を豊かに

沢庵漬けの由来には他にも、沢庵和尚の墓石が沢庵漬けの重石に似ているところから命名された、という説もあります。どれが本当かは謎ですが、沢庵漬けが沢庵和尚にちなんでいることは確かなようです。

清貧を好んだ沢庵和尚ですが、花鳥風月をこよなく愛し、自然を友として、その心の生活は実に豊かだったようです。沢庵漬けは、いかにも沢庵和尚に似つかわしく、豪華ではありませんがおいしいおかずです。江戸時代には一般の家庭に広まり、それ以来、21世紀の現在に至るまで、沢庵漬けは好まれてきました。ごはんによく合う、まさに天下一品のおかずといえるでしょう。沢庵和尚は禅僧であり書画・俳諧・茶に通じた文化人でもありますが、「くぼたのたんぼ」ではこの沢庵漬けで、ごはんがいっそうおいしく食べられるようになり、お米の食文化に貢献したということで、田んぼのヒーローとさせていただきたいと思います。

沢庵和尚は正保二年 (1645年) 、東海寺において73歳で大往生を遂げました。筆をとった沢庵は「夢」の一字を書いた後、筆を置いて永遠の眠りについたといわれています。その夢の意味が何であったかは、伺い知ることはできません。

石田三成

天草四郎時貞