武田信玄(たけだしんげん) 大永元年 (1521年)〜天正元年 (1573年)

武田信玄

戦国時代の武将。上杉謙信と川中島で戦うこと数回。その後、織田信長との戦いに向かう途中の三河で病に倒れた。甲斐国主として領国開発に力を入れた。

戦国最強と伝えられる武田騎馬軍団で領土を拡大

室町時代末期の応仁の乱後、大名が入り乱れて争う戦国時代に、武田信玄は甲斐の守護・武田信虎 (たけだのぶとら) の長男として生まれました。天文十年(1541年)、21歳のときに家臣団とともに、悪政をしいていたと伝えられる父・信虎を追放して強制的に引退させ、第十九代当主となりました。その後は、風林火山 (ふうりんかざん) の旗の下、戦国最強と伝えられる武田騎馬軍団を率いて破竹の快進撃で領土を広げます。風林火山は武田軍の軍旗で、その意味は「疾 (はや) きこと風のごとく、静かなること林のごとく、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし」という意味です。その勢力は甲斐・信濃・駿河・飛騨、さらに越中・美濃・三河・遠江の一部にまで拡大し、ついに越後にまで迫ったため、越後国の上杉謙信と対立することとなります。こうして宿命のライバル、「甲斐の虎」対「越後の龍」の対決が始まります。戦国二強の両雄が北信濃をめぐり、足かけ十二年にわたって五度の決戦を行いました。とくに永禄四年の戦いは激戦であり、川中島の戦いとして有名です。この時、上杉謙信は武田信玄の本陣に乗り込んで一騎打ちを挑み、信玄に傷を負わせたと伝えられています。

しかし一方で、他の武将が、生活に欠かせない塩を甲斐に送ることを禁止し、甲斐の人々が困ったとき、上杉謙信は武田信玄を攻めるこの最大のチャンスにあえて合戦を挑まず、逆に次のような手紙を送りました。「近隣の武将が塩を差し止めているのは、まことに卑怯千万な行為です。私はあなたとの決着を戦いによって決めようと思っていますので、塩はどんなことをしてもお届けしましょう」。信玄たちは感動して「味方に欲しい名将だ」と言ったそうです。このエピソードが「敵に塩を送る」ということわざの元になっています。

農業発展のために20年をかけて信玄堤を完成

合戦を続ける一方で、武田信玄は治水工事においても手腕を発揮しました。戦国大名は自分の領土を拡大し、お米の収穫量を上げることに力を注ぎました。お米をより多く収穫するには、新田を開発して田んぼの面積を増やし、田んぼを水害から守らなければなりません。織田信長や徳川家康も豊かな水田地帯から力を伸ばしてきました。しかし、甲斐は水田地帯が少なく、高い山に覆われていました。昔から「河を治める者が国を治める」と言われていますが、平地の少ない甲斐の国では、この言葉の通り治水の成功こそが領土の安定の基本でした。

天文十一年 (1542年) 、武田信玄が実権を握った翌年、暴れ川と呼ばれるほどの急流の釜無川 (かまなしがわ) が大洪水となり、一帯が泥と砂の海と化し、草木はすべて枯れたと伝えられています。信玄はこれを見て、即座に釜無川の治水に取り組みました。完成したのは永禄三年(1560年)と推定されています。約20年の歳月をかけた壮大なプロジェクトで、この治水事業の成果が「信玄堤 (しんげんづつみ) 」です。

水をもって水を制する甲州流の治水法

信玄の治水事業では、さまざまな工夫がこらされています。まず、釜無川に流れ込む急流の御勅使川 (みだいがわ) のなかに大きな石を積んで、川の流れの勢いを弱めています。次に、御勅使川のなかに堤を置いて川の流れを二つに分け、新しい川を掘りました。御勅使川を二つの川にするという壮大なプロジェクトです。そして一つを本流とし、残りを大雨のときの洪水防止のために使用することとしました。

また、最も氾濫しやすい釜無川と御勅使川の合流地点に、16個の大きな石を並べて流れをコントロールし、御勅使川と釜無川の流れの勢いが打ち消し合うようにしました。「水をもって水を制する」手法です。また合流した川の流れをいったん「高岩」と呼ばれる崖に当て、これによってさらに流れの勢いをそぎました。

また、釜無川では一つの大きな堤防ではなく、小さな堤防を重なり合うように並べました。あまりにも大雨のときは水があふれ出る仕組みになっています。その場合は無理をせず、洪水の被害を最小限にとどめ、堤の破壊も防ぐための工夫です。剛直な合戦のイメージとはまた違って、実に柔軟な考え方の持ち主だったようです。

信玄の治水事業の特徴は、荒れる川の流れに逆らわず、石積みなどで流れを巧みにコントロールし、勢いをそいで洪水を防いだところです。こうした先進の土木技術をいかにして修得したのかは謎でしたが、中国・明の技術書によく似た方法が記されていることから、中国から伝わったものと見られています。「信玄堤」は、完成後400年以上たった現在でも治水機能を果たしています。

さらに、この治水施設を守り、維持するためにも武田信玄は工夫をこらします。地元の村人に管理を命じ、代わりに税を免除しました。また一宮町の浅間神社から信玄堤のある三社神社まで神輿が練り歩く水防祭りを盛大に行いました。これは、堤防の上を御輿とその行列が通って踏み固めることにより、より堅固にするための知恵でした。また、神社にお参りに来る人たちが堤防を踏み固めますし、農民に洪水への関心を薄れさせないためでもあると考えられています

治水の祖として天下一に

元亀三年 (1572年) 、天下統一を目指して、武田騎馬軍団はついに京都に向かいました。途中、三方ヶ原の合戦で徳川家康を破りました。しかし、三河・野田城を攻略中に武田信玄は病を得て、翌年4月、夢むなしく53歳の生涯を閉じました。

徳川家康は唯一自分を破った名将・武田信玄を恐れながらも模範とし、さまざまな面でお手本としたそうです。戦国時代の治水方法は秘密の技術であり、治水事業は極秘のうちに進められたと思われます。このため、武田信玄が没した後に初めて、徳川家康は釜無川の治水プロジェクトを視察しています。そして、信玄が決めた通りに、地元の農民に管理を命じて、従来与えられていた免税などの特権も同様に認めています。武田家による治水政策、技術は後の江戸時代に「甲州流川除法 (こうしゅうりゅうかわよけほう) 」として、特に急流の川における治水法の主流となり、江戸時代に盛んに行われた新田開発の助けとなりました。戦国最強と言われながら「天下の覇者」にはなれなかった武田信玄ですが、治水の祖として「天下一」の夢をかなえることとなったのです。

北条泰時

豊臣秀吉