坂本龍馬(さかもとりょうま) 天保六年 (1835年)〜慶応三年 (1867年)

坂本龍馬

幕末の志士。江戸に出て勝海舟に入門し、航海術を学ぶ。また、長崎に商社を設立、これが後に海援隊に発展する。薩長連合をコーディネートして、大政奉還に尽力した。北海道開拓に着手し、後に龍馬の遺志を受け継いだ甥が北海道開拓を実現する。

勝海舟の教えで、世界へ目を向ける

坂本龍馬は天保六年 (1835年) 、高知城下上町 (現在の高知市) で、武士である坂本八平直足の次男として生まれました。12歳で母を亡くし、姉の乙女に育てられました。18歳のときに江戸に出て、北辰一刀流・千葉定吉に剣を学び、免許皆伝となります。剣の腕前は一流であったと伝えられていますが、その生涯で人を斬ることはありませんでした。

この頃、米国のペリーの来航などで、士族は開国派と攘夷 (じょうい) 派に分かれていました。攘夷とは、外国を排撃して鎖国を継続することです。竜馬も志士活動を開始します。志士とは、高い志 (こころざし) を持って、国家・社会のために、自分の身を犠牲にして尽くそうとする人のことです。

龍馬ははじめは攘夷派でしたが、江戸幕府の軍艦奉行・勝海舟に出会って開国派となります。咸臨丸で渡米し、米国の何千トンという戦闘艦を目の当たりにしている勝海舟は、いま攘夷論をとって開戦しても、日本の得にはならないと判断していたのです。そこで龍馬が「では、どうすればいいのでしょう」と訊くと、勝海舟は断言します。「海軍を作ることだ」と。龍馬は神戸海軍操練所を創設し、勝海舟の私設海軍塾の塾頭となります。また、国際都市・長崎で日本初の商社である亀山社中を発足させ、貿易にも従事します。こうして龍馬は国際人としての感覚を研ぎすませていきます。

薩長同盟をコーディネートし、大政奉還に力を尽くす

この頃、反幕派は、幕府から朝廷に政権を返上する大政奉還を主張していました。時代の気運は、武力による倒幕に傾きつつありました。しかし、龍馬は平和的手段による大政奉還を達成しようと考えたようです。龍馬は、対立していた薩摩藩と長州藩を結び、慶応二年に薩長同盟を実現します。薩長同盟という武力倒幕の強力な勢力を成立させて幕府を牽制する一方で、慶応三年には後藤象二郎と統一国家構想を練って「船中八策」を作成し、土佐藩・山内容堂に進言。これをきっかけに、土佐藩は10月3日、前藩主・山内豊信の名で大政奉還を提言する建白書を幕府に提出しました。これを受けて同月14日、徳川慶喜は大政奉還の許可を求め、翌15日に朝廷は許可しました。龍馬の願いであった、平和的手段による大政奉還がここに実現しました。

新しい時代がスタートしました。龍馬にはさまざまな夢があったようです。しかし、大政奉還が実現した翌月、龍馬は京都の近江屋の二階で見廻り組に襲撃され、中岡慎太郎とともに暗殺されました。慶応三年十一月十五日。龍馬33歳の誕生日でした。

北海道開拓に着手

龍馬は北海道開拓という壮大なビジョンを抱き、文久三年 (1863年) に着手、勤王党の北添佶磨らを北方視察に派遣しました。ところが北添が暗殺されて、この計画は中止となってしまいます。

しかし、龍馬はあきらめることができず、北海道開拓第二次計画を立てました。慶応三年三月、長府藩士・印藤肇に書いた手紙には、「小弟はエゾ (北海道) に渡らんとせし頃より、 (中略) 積年の思ひ」と、北海道開拓への強い意志を示しています。また、同月14日には鳥取藩の河田佐久馬 (維新後、元老院議官となる) あてに、「此度はすでに北行の船も借り受け申候。3月中旬より4月朔日には、多分出帆」という手紙を送っています。この計画も、船の代価未払いなどで成功しませんでした。しかし、龍馬はまだあきらめません。長崎の海援隊規約でも、「脱藩ノ者、海外開拓ニ志アル者、皆是ノ隊に入ル」と示し、海援隊の目的の一つが北海道開拓であることを示唆しています。北の大地・北海道は、南国出身の龍馬にとっては、情熱をかきたてられる新天地だったようです。

龍馬の妻・お龍も「北海道ですか、アレはずつと前から海援隊で開拓すると云つて居りました。私も行くつもりで、北海道の言葉を一々手帳へ書き付けて毎日稽古しておりました」 (千里駒後日譚) と、龍馬と共に北海道へ渡る決心をしていました。結局、龍馬はこの積年の思いを果たすことはできませんでしたが、その夢は生き続けます。

龍馬の遺志を受け継ぎ、龍馬の甥が実現

龍馬ゆかりの人々が、彼のビジョンを受け継ぎます。明治二年 (1869年) に新政府直属の開拓使が北海道に設置されましたが、財政は困窮を極めており、全国の諸藩の支援をあおぐことになりました。土佐藩は龍馬の夢にふれた者が多かったためか、強い熱意を持っており、願い書を提出して勇払郡、千歳郡、夕張郡の支配が認可されます。しかし、この計画も結果的には挫折します。

そして、明治二十八年 (1895年) 。龍馬の甥である高松直寛は、未開の地・北海道に理想的な農村を作る目的で、高知県を拠点として合資組合・北光社を設立しました。高松直寛は龍馬に心酔しており、龍馬のペンネーム・才谷梅太郎をもじり、才谷梅次郎と名乗っていたほどです。

明治三十年 (1897年) 、高松直寛をリーダーとする北光社移民団はついに北海道開発に着手。28日間の航海を経て網走へと渡航し、さらに3日の旅の後、野付牛 (現北見市) に到着します。航海は困難きわまり、途中30人ほどがハシカなどの病気で亡くなったそうです。そうして着いたところは見渡す限りの荒野。高知との気温差は15℃。その過酷な環境のなか、身を粉にして働き、ついにできたのが北光社農場です。北光社のもう一人のリーダー的存在であった前田駒次は、この地で水稲耕作を成し遂げ、農業の父といわれています。北海道開拓という龍馬の夢は命脈を保ち、北海道の大地に開墾の鍬が入れられ、豊かな農地へと結実しました。

大原幽学

福永章一