小林一茶(こばやしいっさ) 宝暦十三年 (1763年)〜文政十年 (1827年)

小林一茶

江戸後期の俳人。15歳のときに江戸に出て、俳諧を学んだ。俗語や方言を使いこなし、さまざまな経験からにじみ出た主観的・個性的な句で知られる。風流を愛でるこの時代の俳壇で、日常の生活や状況をこっけいに詠う独特の作風を展開。骨太ながら親しみやすい作品が多く、生活派俳人と呼ばれている。

少年時代に積雪地帯で農業に従事、その厳しさを知る

一茶は信濃国柏原村 (現在の長野県信濃町) で、農家の長男として生まれました。3歳の時に母と死別し、祖母に大切に育てられました。8歳の時に父が再婚しましたが、新しい母になじめず、仲良くできませんでした。孤独な少年時代だったと思われます。

柏原村は越後から信濃に入る途上にあり、宿場もあって栄えており、江戸歌舞伎が上演されたり、また旅の俳人が滞在して句会が開催されるなど、文化的な雰囲気に触れることはできたようです。孤独な少年時代の一茶は、この頃に俳句に対する興味が芽ばえたのかもしれません。しかし、少年時代の一茶は農業の手伝いをしていて、あまり勉強の時間はとれなかったようです。一茶自身が、「昼は終日菜摘・草刈、馬の口とりて、夜は夜すがら窓の下の月の明かりに藁打、草鞋作りて、文まなぶいとまなかりけり」と日記に書き残しています。積雪地帯という自然条件の厳しい土地での農業体験が、後に一茶の俳句に度々あらわれてきます。

一茶が15歳のときに、一茶を可愛がってくれていた祖母が亡くなります。これをきっかけに、一茶の父は、一茶と新しい母が不仲のままで暮らすよりも、離れた方がいいと判断して、一茶を江戸に奉公に出します。信濃は雪の深い地方であり、冬場は江戸で仕事をする人も多く、江戸へ出ること自体はめずらしいことではなかったでしょうが、やはり15歳の少年にとっては寂しいことだったでしょう。

不安定な暮らしで修業を続け、花鳥風月より生活を詠む俳人へ

一茶は江戸で奉公先を点々と変えながら、少しずつ俳句を覚えて、22~3歳の頃から、葛飾派の今日庵元夢、二六庵竹阿などについて修業します。家はなく、知人宅を渡り歩くという暮らしでした。それでも28歳の頃には、若手俳人として少しは知られるようになったようです。一茶と名乗ったのもこの頃です。それは一杯のお茶の泡のように、消えやすく、はかない身だからという意味だそうです。

30歳から36歳までの約6年間、一茶は関西・四国・九州に俳句修業の旅に出ました。西国大旅行です。門人や俳句仲間を訪ね歩いて句会を開き、その礼金で次の目的地をまわるという日々でした。この6年の旅では、「万葉集」などの古典を研究するなど、俳句の修行に努めました。やはり寂しさはあったようで「初夢に ふるさとを見て 涙かな」と詠んでいます。しかし、こういった暮らしを6年間も続けられるのは、一茶が社交的で交友関係が多く、もちろん俳句の実力もついてきたからといえるでしょう。

旅に疲れ、一茶は寛政十年 (1798年) に江戸に戻ります。江戸に戻ってからも、一茶は相変わらず、家も妻も家業もない身の上で、俳句好きな商人の世話を受けるなど、暮らしは不安定でした。後に小林一茶は松尾芭蕉・与謝野蕪村と並んで江戸時代の俳壇を代表する三大俳人の一人に数えられます。芭蕉や蕪村が花鳥風月の美しさを多くを詠んだのに対して、一茶は農業の厳しさや貧しい生活などを写実的に表現する俳句を多く作り、次第に生活派俳人としての個性を鮮明にしていきます。

家族を失うなかで、小さな生物や子どもをいとおしむ句を多作

一茶は50歳の時に故郷に帰り、初めて家や田畑・山林を持ちました。2年後に24歳年下の菊と結婚し、子どもも生まれました。一茶は、家があり、田畑があり、家族もいるという幸せを、初めて味わいました。「めでたさも 中位なり おらが春」。自分の家で、妻と生まれたばかりの子どもとで正月を迎えた喜びを、中くらいで上出来と、詠んだ句です。

しかし、三男一女を得たものの、子どもにも妻にも先立たれてしまいました。その後、再婚をしますが3ヵ月ほどで離婚し、64歳の時に3度目の妻を迎えます。ところが翌年、柏原の大火で家が焼け、焼け残った土蔵で暮らすことになりました。そんな中、門人の誘いで2ヵ月ほど駕籠で旅をし、旅から帰って半月もたたないうちに、そのまま土蔵で65歳の生涯を閉じました。淋しさのつきまとう人生だったようですが、子どもの目線でとらえた童謡的な句、蛙や雀といった小動物に心を寄せた句など、やさしい俳句がたくさん残されています。

「あの月を とってくれろと 泣く子かな」
「雪とけて 村いっぱいの 子どもかな」
「這え笑え 二つになるぞ けさからは」
「陽炎や 縁からころり 寝ぼけ猫」
「痩せ蛙 負けるな一茶 これにあり」
「やれ打つな 蠅が手をする 足をする」
「猫の子が ちょいと押さえる 落葉かな」
「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」
「我と来て 遊べや 親のない雀」

偉大な農業文学者

一茶は50歳の時、家や田畑・山林を相続しましたが、農業は人まかせで、全部小作に出し、自分は相変わらず俳人として暮らしていました。一茶は農民に生まれながら、農業に従事しないということに引け目を感じていたようで、「もたいなや 昼寝して聞く 田植唄」「春がすみ 鍬とらぬ身の もったいな」などの俳句に残しています。自分のことを「もったいないことをしている」と感じているわけです。そんな思いからか、一茶の句には農家の暮らしを題材にした俳句が多くあります。自ら鍬 (くわ) を持たない一茶は、農業を応援する気持ちを俳句で表現するしかなかったのでしょう。数々の俳句に、一茶の農業への思いが感じられます。一茶は偉大な農業文学者であったとも言えましょう。

「ざくざくと 雪かき交ぜて 田打哉」
「鍬のえに うぐいす鳴くや 小梅村」
「山畠や こやしの足しに 散る桜」
「陽炎や 鍬で追いやる 村カラス」
「信濃路や 山の上にも 田植傘」
「藪陰や たった一人の 田植唄」
「襟までも 白粉ぬりて 田植哉」
「けいこ笛 田はことごとく 青みけり」
「昼飯を ぶらさげている かかし哉」
「どちらから 寒くなるぞよ かかし殿」
「雪散るや おどけも言えぬ 信濃空」

伊能忠敬

二宮尊徳