卑弥呼(ひみこ) 2〜3世紀 (生没年不詳)

卑弥呼

「三国志」の「魏志倭人伝」に登場する、3世紀半ば頃の邪馬台国の女王です。「魏志倭人伝」によれば、約30国が女王の統治下にありました。239年に使者を魏に遣わして、明帝より「親魏倭王」の称号を与えられています。邪馬台国は2世紀前半から3世紀後半頃の倭にあった、最も強大な国です。位置については九州説と畿内説の二つがおもな説となっています。

弥生時代は戦乱の時代

弥生時代は紀元前4世紀頃から紀元後3世紀頃まで。縄文時代の後、古墳時代の前にあたる時代です。その始まりについては、弥生土器の出現とする考え方と、稲作の開始とする考え方があります。いずれにしても、大陸文化の影響を受けて水稲耕作が始まり、金属器、鉄器の使用が開始された時代です。

弥生時代の人々は主に潜水漁法を行って、魚貝類を獲っていたといわれています。しかし稲作が普及するにつれてしだいにお米が食卓の主役となり、ご飯とおかずの食事スタイルが確立されていったようです。

弥生時代中期以降は戦乱の時代だったようです。これは、その頃の集落が濠 (ほり) と土塁 (どるい、土で築いたとりで) で囲った「環濠集落 (かんごうしゅうらく) 」として作られているからで、戦乱に備えて防御態勢を築いていたと考えられています。有名な吉野ヶ里遺跡では内濠と外濠の二重の濠が掘られて、見張りのための物見櫓 (ものみやぐら) も設けられています。また高地性集落も存在します。稲作を営むには平地に集落を作った方が便利ですから、高い場所に集落を作っていたのもやはり防御のためだったようです。

これらの戦乱の原因としては、新田の開発地と鉄をめぐっての争いではなかったかと推測されています。この争いのリーダーとして、また稲作に不可欠の水の確保と管理、他の共同体との交渉、内部でのトラブルの解決、そして豊作を祈る祭祀の主催者として、次第に首長が強い権限を持つようになったようです。

卑弥呼が統治

「魏志倭人伝」は中国の魏・呉・蜀の三国時代について、晋の時代に編纂された歴史書「三国志」のなかの「魏書」の通称です。日本古代史に関する最古の史料です。

この「魏志倭人伝」では卑弥呼の登場について次のように記しています。
「其の国、本亦 (もとまた) 、男子を以て王と為す。とどまること七・八十年。倭国乱れ、相い攻伐して年を経たり。すなわち一女子を共立して王と為す。名づけて卑弥呼という」
大乱が発生し、国々の争いがたえないので、この事態を収集するために、首長たちが女王を共立しました。卑弥呼は、王のなかの王だったわけです。

「魏志倭人伝」によれば、紀元後3世紀の日本には30の国があり、最強の国が女王・卑弥呼 (ひみこ) が統率する邪馬台国 (やまたいこく) だったと伝えられています。

卑弥呼については「年すでに長大なるも、夫婿 (ふせい) なく、男弟あり、たすけて国を治む」と記されているように、夫はなく弟が政務を助けていました。また「宮至・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵 (つわもの、武器・兵士のこと) を持して守衛す」などの記述から、王となってからは人前に姿を見せず、宮殿の奥深くにあって、兵に守られていたようです。また多数の巫女の世話を受けているという記述もあります。

卑弥呼はまた「鬼道につかえ、能く衆を惑わす」とあり、カリスマ的な権威がありました。
鬼道とは、中国の道教的要素を取り入れた新しいタイプの呪術だったようです。卑弥呼は神の声を伝えるシャーマンでした。米作りは天候に左右されるため、弥生時代には予祝や収穫祝など豊作の祈りが始まりました。呪術、祈りは人々の心のなかで大きなウエイトを占めていたようです。卑弥呼の存在感は現代の私たちが想像するよりも強大だったと思われます。

卑弥呼の外交

卑弥呼には倭国内でのシャーマンとしての側面と、他国との外交を担う「親魏倭王」としての側面がありました。239年、卑弥呼は魏の首都洛陽に使節を送り、贈り物をして、明帝より「親魏倭王」の称号を受けています。この使節については「倭の女王、大夫難升米等を遣して郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む」と記述されています。

239年は魏が、呉と同盟している公孫氏を破った直後で、卑弥呼は絶妙のタイミングで勝利者側に使節を遣わしていることになります。国際ニュースにもとづいて外交手腕を発揮していたといえるかもしれません。青銅器・鉄器の原材料は海外に依存していたため朝鮮半島、中国との交流は不可欠でした。卑弥呼はこの国際交流を維持し、この時代に農具の鉄器化も進みました。

稲作の発展を担った女王

農業生産力の発展が余剰生産物を生み、人口が増加し、新たな新田開発が望まれ、その結果土地占拠をめぐる戦乱となる。この悪循環を抑えて平和をもたらしたのが卑弥呼です。また同時代に鍬 (くわ) や鋤 (すき) といった農具の鉄器化が進みました。稲作の発達とともに、国々はやがて統一されて、「日本」という大きな国が作られていくことになります。米は日本の社会の基礎となっていきました。

邪馬台国の位置や卑弥呼像については、いずれも豊かなさまざまな説があります。「くぼたのたんぼ」では平和の維持と国際交流促進による農具の鉄器化の進展、この二つの側面から、卑弥呼を稲作の発展を担った女王とさせていただきたいと思います。

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